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【26】最後の親孝行

親孝行と言えば、子どもが親に何かをして差し上げる、育ててくれた恩に報いる、感謝を込めて接する、このような事ですね。

最近では、老老介護などと呼ばれるようになり、年老いた子どもが、年老いた両親の面倒を見たり、年老いた父や母が年老いた子どもの面倒をみたりしています。

確かに、お年寄りの介護は言葉で表せないほど大変な仕事です。お金があれば施設に預けたり、ヘルパーの方に来ていただいたりして面倒をみてもらえます。しかし、その費用負担が出来ない人たちも多くおります。

市町村等がそのための窓口となっていますが、現実に切実に必要としている人たちにとって、行政施設等の対応、生活保護に対する対応の不備などもあり、なかなか適切な対応がされていないのが現実です。

それが親子間での老老介護が増えてきている原因です。

いずれ、私たちもお世話になるはずですが、一体どうなるのでしょうか・・。

私は新年になると思い出すことがあります。

それは今から十年ほど前の出来事です。

平成18年1月31日。

彼は〈最後の親孝行〉をするために、認知症の母親を車椅子に乗せて京都に向いました。そこは彼と両親との思い出の場所でした。

母と子は、そのとき何を想い出していたのでしょうか・・。

家族が揃っていた、楽しかったひと時を想い出していたのでしようか・・。

若くしてこの世を去ったお父さんのことなのでしょうか・・。

まだまだ冷たい風が吹きすさむ1月のことでした。

もう、残されたお金もありませんでした。

二人は最後のお金でパンを買いそれを分けて食べました。

息子は母親にこう語りました。

「もう、生きられへんのやで・・」

86歳になる母は、すべてがわかっていたようで、静かに答えます。

「そうか、あかんか。一緒やでおまえと・・」

母と子は泊まる所もなく、桂川の川べりで体を温めあいながら、一夜を明かしました。

翌2月1日の朝、

「ここで終わりやで・・」と話しかける息子に、

「そうか、あかんか。康晴、一緒やで。お前と一緒や・・」

「すまんな、すまんな・・母さん・・」

泣きながら母に語りかけた息子の頭を撫でながら、

「もう、泣かなくていい・・康晴は、わしの子や、(お前が死ねないのなら)わしがやったる・・」と母は言いました。

現実は身体が動かず、死にたくとも死ぬことさえできない母でした。

この時の母は一体何を考えていたのでしょう?

認知症とはいえ、二人の会話はひとつでした。介護する者も、介護される者も親子であるからこそ大変なことです。介護される者は、心の中にいつも申し訳ないという強い気持ちがあります。元気ならば子どもには何も負担をかけたくないと思うからです。

介護する側は、育ててくれた親に対する恩があります。簡単に施設に預けられる者ならば、互いがその切なさは感じないでしょう。

「お前が死ねないのなら、わしがやってやる・・」

そのように言った母ですが、子を殺す力などありません。

わが愛する子をこれ以上苦しませたくない・・。

だが、殺してあげることもできない絶望がそこにありました。

この言葉で、息子は決心しました・・。

互いの心と身体は限界に達していたのでしょう。

家にも帰ることができない、食べることもできない・・誰も助けてはくれない・・。

息子は泣きながら愛する母の首を絞め、自らも包丁で首と腕、腹を切り、心中を図りました。母を独りぼっちのまま旅立たせる訳にはいかなかったのです。

あたりは冷たい雨が泣いているかのように降り注いでいました。

そして数時間後、母の隣に倒れているところを発見され、息子は一命をとりとめたのです。もちろん、怪我の回復を待って、彼は殺人罪として警察に逮捕されました。

4月に入り初公判となり、彼に異例の判決が下されます。

彼の罪状は殺人罪。殺人犯として問われたのですが、公判の冒頭陳述の中で、介護をめぐる彼の孤独で過酷な生活、母を慈しむ心情と親子の深い絆などが語られ、傍聴人だけでなく、裁判官までも涙を浮かべ聞き入ったのです。

自分の食事を二日間に一回にし、母の食事を優先してきました─。

その後、関係者の証言などにより、彼の献身的な介護ぶりや母子の深い関係を知り、異例の展開となったのです。

判決で、東尾龍一裁判官は、

「昼夜介護した苦しみや悩み、絶望感は言葉では言い尽くせないものがあった・・命を奪った結果は取り返しがつかず重大だが、社会で生活する中で冥福を祈らせることが相当」と執行猶予(懲役2年6か月、執行猶予3年(求刑懲役3年))の理由を説明しました。

薄いTシャツにズボン姿の彼は背筋を伸ばし聞き入り、献身的な介護ぶり、という言葉を聞くと、うつむきながら涙をぬぐいました。

さらに裁判官は、

「命の尊さへの理解が被告に欠けていたとは断定できない・・」と語り、傍聴者からもすすり泣きが聞こえました。

一人息子だった彼は、35歳になったとき、西陣織の糊置き職人の父親の弟子になりましたが、平成七年に父親は亡くなり、その頃から母親は認知症の兆しを見せ、介護に追われる彼は、独身のまま母親の世話を引き受けていました。

介護を行いながら5年間働いていましたが、母親の病状が悪化したため、仕事を辞めることになります。それは、徘徊するようになった母が警察に保護されるようになったからです。まったく働けなくなり、失業保険も切れ、生活は困窮し、家賃さえも支払えなくなってしまいました。

亡くなった父からは「人さまに迷惑をかけてはならない」と厳しく躾けられてきたためか、彼は「命をそぐしかない」と、母親と心中を決意します。

それが「最後の親孝行の旅」となったのでした。

認知症の母でしたが、そのことは十分に承知していたようです。

冬まだ寒い、桂川のほとりで二人はどんな景色を感じていたのでしょうか・・。

なんと悲しい話なのでしょうか・・。

「すまんな、すまんな、母さん・・」

彼は公判でこう語りました。

「母の介護はつらくありませんでした・・老いていく母がとてもかわいかった・・」

「母の命を奪いましたが、もう一度母の子に生まれたい・・」と。

裁判官は、

「献身的な介護を受け、最後は思い出の京都案内をしてもらい、被告には感謝こそすれ、決して恨みなど抱かず、厳罰も望んでいないだろう・・」と母親の心情を語りました。

半面、被告が公的支援を願ったのにもかかわらず、「公的支援が受けられず、経済的に行き詰った」と、行政の対応を指摘。被告は何度も社会福祉事務所や生活保護の相談に出向いたにもかかわらず、門前払いされた事実に対しての苦言でした。

これらの対応は、「被告が死を決意する一因とも言える」。さらに「介護保険や生活保護行政の在り方も問われている」と、裁判官は述べたのでした。

そして、

「痛ましく、悲しい事件だった。今後、あなた自身は生き抜いて、絶対に人をあやめることのないよう、母のことを祈り、母のために幸せに生きてください」。

裁判官を含めて、多くの人たちが涙した実話です。

しかし、介護疲れで夫婦間や親子間での無理心中に至る悲劇はまだまだ続いています。

©Social YES Research Institute / CouCou

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