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【23】あなたは強くなれるのだから

1876年、彼女はニューイングランドにある精神病院にいました。

アニーと呼ばれる、まだ幼い10歳の女の子です。

1866年4月16日。アニーは、アメリカ東部マサチューセッツ州フイーディングヒルズに移住したアイルランド系移民の貧しい一家の長女として生まれました。

父トーマスは農民でしたが、仕事をせず、家族を養うことを放棄してしまいます。

1874年、アニーが8歳のときに母が亡くなると、父トーマスは、娘のアニーと息子のジミーを孤児院に預けて姿を消してしまったので、アニーは、幼い弟ジミーと二人きりになってしまいました。

1876年3月31日。弟のジミーは結核を患いこの世を去ります。

アニーは精神病院で暮らすことになりました。愛する母を亡くし、弟を亡くし、父が去って行ってしまったのですから、幼いアニーが我を失うのは当然のことだったのかもしれません。父トーマスの行方は誰にもわからなかったようですが、アニーは父親に負担をかけたくなかったのか、恨んでいたのか、けっして父を探そうとはしませんでした。

アニーの病名は、他人に反応を示さない緊張型分裂症患者(鬱病)。無表情のまま誰とも会話をしなくなりました。

世の中でたった一人きり、日々死の恐怖に怯えながら、母と弟への思い、父への悲しみだけで小さないのちを保っていました。

神を恨んでいたのでしょうか・・それとも、運命を呪っていたのでしょうか?

10歳の子どもに神や運命など知る由もありません・・。

さらに、3歳の頃から弱っていたアニーの視力は悪化の一途をたどり、盲目に近くなっていたのです。母が倒れたとき、アニーとジミーは母親に寄り添い泣きじゃくっていました・・。ジミーが母親の身体をゆすりますが、まるで動きません。母は、一人で子供たちを育てるために働き、過労と心労のため倒れ、そのままこの世を去ってしまったのです。二人にとって、大好きな、大好きな、大切なお母さんでした。

「おとうさん、おとうさんがいれば・・。」

母と弟の死、父の蒸発、そして目の見えなくなったアニー。これから、どうすればよいのでしょう。どう生きればよいのでしょう・・。

アニーは一切の食事を拒むようになりました。ひとりぼっちの牢獄のような部屋の中で、真っ暗闇の世界の中で、何を考えていたのでしょう・・。

そんなある日、毎日病院を掃除に来るおばさんと出会いました。

行動や表情を見れば、アニーが普通の子供とは違うことがわかります。

アニーは部屋の片隅に座り、ある一点だけを見つめ続けています。

「アニー・・、アニー・・?」

掃除のたびに話しかけますが、返事はありません。

「・・いいよ、何も答えなくったって・・。」

おばさんは、そう言いながらも話し続けました。お昼休みはアニーの部屋で過ごすことに決めました。そして、おばさんは彼女のために祈ります。本やお菓子を差し入れますが、そのお菓子に手をつけようとはしません。

「おはよう。」

「こんにちは。」

「何か食べた?」

「可愛い、可愛いアニー・・。」

「今日は雨だよ。」

「今日は寒いよ。」

「いい天気だ、太陽の光を感じるかい・・?」

「ほら、鳥が歌っているよ!」

「今日は歌を歌ってあげようね・・。」

掃除のおばさんは、どんな人に対しても、どんな状態であっても、愛と思いやりを持って接するべきだと信じていました。

ある日、お皿にあった手作りのチョコレートの一つが減っていることがわかりました。

そして、毎日持ってくるクッキーの数が減っていくのもわかりました。

おばさんは病院から帰宅する途中、両手を合わせて感謝の祈りを捧げました。

「・・ありがとう、ありがとう神さま。ありがとう、ありがとうアニー・・。」

涙が頬を伝い、月灯がその雫を照らしていました。

こうしてアニーは、訪れる者もいない真っ暗闇の世界に一途の光を見出していくのです。見放され、見捨てられ、無反応な人形だったアニーに笑顔という表情が戻り始めるのです。

「・・アニー、あなたは一人じゃあない、家族がいない私も一人じゃあない・・。大いなるもの、目に見えないものの中に、何かが在ることを感じてほしい・・。生きることは素晴らしいこと。生きていれば人を愛することができる。私はね、アニー、あなたを心から愛しているのよ・・。」

1882年、アニーは牢獄のような病室から出て、もう一度しっかりとした治療を受けることになりました。

二年後には普通の生活に戻り、14歳になったときにパーキンス盲学校に入学しました。何度かの手術と訓練により、視力もだいぶ回復していました。

「自分なんか、生きている価値などない・・。」

「誰にも迷惑をかけたくない・・。」

「早く、おかあさんとジミーに逢いたい・・。」

そんな思いをふり切るように、アニーは一番嫌いだった社会に身を投じていきました。

彼女には、ある自信が芽生えていたのです。それは、愛する母を失い、愛する父に捨てられ、愛する弟と死別したという悲惨な過去を生き抜いてきたという自信でした。

たとえどんなに辛い生活であっても、それに耐え忍び生きてきたという自信が、いつしか自分の道を切り開いていこうとする強固な意志となっていたのでした。

過酷で悲惨な体験が、アニーの未来への財産に変わったのです。

ある時、「目が見えず、耳も聞こえず、口もきけない子供の世話してほしい」と、施設の医院長から頼まれたのです。その医院長に声をかけたのが電話の発明者アレクサンダー・グレアム・ベルでした。(母親が聴覚障がい者だったこともあり、ベルは鼓膜を研究し、やがて薄い金属板を振動させる人工鼓膜や電話を開発しました。)

この時アニーに託された女の子が、三重苦で有名なヘレン・ケラー(奇跡の人)でした。

1880年6月27日、この世に生を受けた自由奔放、我儘でどうしようもないヘレン8歳。高校も卒業していない、教員資格もないアニー22歳の時のことでした。

教師となったアニー・サリバン。後のサリバン先生です。

サリバン先生はこんな言葉を残しています。

「喜びは、自分を忘れる事にあるのよ。」

「人の唇から漏れる微笑みを、自分の幸せと感じられる人間になりたい。」

「雲に触れることは出来ないでしょう・・。それでも雨が降ってくるのはわかるし、

暑い日は、花も乾いた大地も、雨を喜んでいるのがわかるでしょう。

愛もそれと同じなの。

愛も手で触れることは出来ないけれど、

愛が注がれる時の優しさは、感じる事ができるでしょう・・。

愛があるから、喜びも湧いてくるし、遊びたい気持ちも起きるのよ」

「どんなささやかな成功も、他人の目には触れない挫折や苦難の道を経ているものなの。」

「失敗したら、初めからやり直せばいいの。そのたびにあなたは強くなれるのだから。」

(アニー・サリバンの主張は、障がい者と健常者とを区別することなく生活し、平等に仕事に就く「ノーマライゼーション」で、現在の障がい者福祉の基本となっています。)

©Social YES Research Institute / CouCou

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