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【15】最後の五分間

彼は光が差し込む小さな窓から遠くを眺めていました。

外の世界はまるで時間が止まっているかのように、ゆっくりとゆったりと流れているように感じていたのです。

風はなく、空に浮かぶ雲は流れず、青空はそれでも碧く。

小さな窓からでも充分に感ずることができました。

ほんの一瞬かもしれないが、この時が、彼の至福の時なのかもしれません。

自然と涙が溢れてくる。その涙は決して喜びの涙ではありません。むしろ、深い、深い悲しみの涙といえるでしょう。彼は窓から差し込む光にそっと手を合わせ祈る・・。

ロシアの若者ムイシュィキンは誤解され、逮捕され、裁判にかけられて死刑を宣告されました。もう、時間はあまり残されてはいません。刻々と迫る死刑執行の時。

直前まで、彼は死刑になることが信じられませんでした。いや、信じることができなかったのです。

自分には身に覚えはありません。まったく罪を犯してはいませんし、きっと誰かが助けてくれるものだと最後の最後まで信じていたのです。

しかし、現実は信じていた神ですら救いの手を差し伸べてはくれませんでした。

彼は慌てました。なぜなら、まだまだ自分にはやり残したことがいっぱい残されていたからです。

「死にたくない・・まだ、死にたくない・・誰でもいい、助けて欲しい・・」。

彼は毎日、その日がくるまで祈り続けました。それまで神など信じていなかったし、祈ったこともありません。

「だれか、助けて欲しい・・。父や母に逢いたい、友達にも逢いたい。どうしよう、どうしたら良いのだろう・・」。彼は考え続けました。

これまでの人生を、これまでの生き方を、ただ考え続けました。

「果たして、これで良かったのだろうか? もし、死刑でなければわたしの人生はどんなに素晴らしい人生だっただろう? もう何もできない。これまで五十年あまり、なんと無駄の多い人生だったのだろう。ああすれば良かった、こうすれば良かった…。しかし、もうやり直すことができない・・」

あと五分・・。彼は、その五分に希望を託しました。

「生きていられるのはあと五分ばかり。(中略)もし、死なないとしたら、もし、命を取りとめたら、それは何という無限だろう。その無限の時間がすっかり自分のものになったら、おれは一分一分をまるで百年のように大事にして、もう何ひとつ失わないようにする。いや、どんなものだってむだに費やさないだろうに」

そして、ロシアの若者ムイシュィキンはこの五分間を、友だちや愛する者たちとの別れに二分間、いま一度自分自身を考えるために二分間、残りの一分間は、この世の名残りにと、周りの風景を眺めるためにあてたい、と語ります。

この物語はロシアの文豪ドストウエスキーが若いころ、ロシア皇帝暗殺を計画したと疑いをかけられ逮捕され、死刑判決を受けた話です。

そして、自らが処刑される寸前に奇跡が起こりました。

皇帝からの恩赦が出て、死刑にならずシベリア流刑に減刑されたのでした。

ドストウエスキーは、その奇跡に歓喜し、神に感謝を捧げました。

彼は小説『白痴』の最期で、主人公ムイシュキンにこの言葉を語らせたのです。

彼にとっての最後の五分間という土壇場人生。

これは今のわたしたちも同じかもしれません。

わたしたちだったら最後の五分間をどう考えるのでしょう?

人はだれもが自分には時間が無限にある、と考えています。

しかし、時間は有限、時間には限りがある、と考えたとき、おそらく今まで感じなかったこと、見えなかったことなどが鮮明にわかるような気がします。

人間は平等に生まれ、平等に生きて、平等に死ぬ、といわれていますが、この世を去る時は不平等なものです。

それを人は「寿命」と呼び、「天命」といいます。

しかし、時間の長さも不平等なものです。同じ五分間がとても長く感じたり、短く感じたりと、人によって異なるものです。

ですから、問題は時間の中身の濃さにあるのかもしれません。

さて、最後の五分間をあなただったらどうしますか?

©Social YES Research Institute / CouCou

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