【103】静寂の塔

「ねえ、ねえ、パパ。
どうしてこの国は駄目になったの?」
「そうだね、あれは今から四〇年前、新型コロナウイルスが蔓延し世界中が変貌を遂げてしまった。人々は何が真実で、何が誤りなのかがわからなくなり、何よりも生きる希望を失ってしまったのだよ!」
「どうして、生きる希望を失ったの?」
私は、今から四〇年前のことを思い出した。
当時はウイルスといえばインフルエンザが騒がれていた。当時の記録を見ると年間感染者数一〇〇〇万人、死者数約四〇〇〇人関連死を入れると約一〇〇〇〇人だった。
新型コロナウイルスの場合は感染者数約一五〇〇人、死者数約四〇〇人、わが国の人口約一億三〇〇〇万人に対してわずか〇・〇〇三%という割合だった。インフルエンザと比べるとはるかに低い数字なのに、「新型(未知なるもの)」への恐怖から当時のマスコミ、メディアのほとんどが連日報道を繰り返し、わが国の状況よりも、世界中の悲惨な状況の場面ばかり報道し、世界中の人類に恐怖を与えてしまったのだ。
政府もインフルエンザよりも被害が少ないと軽く考えていたが、マスコミ、メディア報道に振り回されるかのように大慌てし、緊急事態宣言を出した。その結果、我が国の経済は崩壊してしまい、人類は希望を失ってしまったのだ。
「パパ、どうしてそうなったの?」
「それはね、私たちはみんな『パブロフの犬』と同じだからさ!」
「『パブロフの犬』って何のこと?」
「それは、少しばかり怖い話だけれど知りたいかい?」
「…うん」
私は少しばかりの怖い話を娘にした。子どもにはわからないかも知れないが、「条件反射」の話をした。
「それはね、ワンちゃんにご飯を食べさせるときに必ずベルの音を鳴らすのさ。すると、ベルを鳴らすだけでワンちゃんはよだれを出てしまう。丁度、梅干しを見ると誰でも、自然に口の中に唾がたまるようなものさ!」
「それはどうしてなの?」
「人の脳というものは一度習慣が身につくと、意識しなくともそう思い込んでしまう習性があるのだよ。ガラスのキーキーという音が嫌いな人もいるけど、好きな人もいる。梅干しやレモンの酸っぱさを知らない人は、よだれや唾はたまらないのと同じで、梅干しは酸っぱいと思う気持ち(思い込み)がそうさせてしまうのだよ!」
「ふーん…」
「この国はね、一部の人間たちが、その「思い込み」の使い方をあやまってしまったため、人々に混乱を与え、国が亡び、経済が駄目になり、人々は希望を失ったのさ!」
人々は、見えないウイルスに対して恐怖心という思い込みを心に擦りこまれ、誰もが感染者のように見え、疑い、恐れ、テレワークなどというネット上のコミュニケーションが発達し、互いはネット画面だけの交流となり、労働は、AI(人口頭脳)が中心となりロボットが生産や製造を行うようになり、人間のほとんどの仕事は奪われてしまった。
「その、仕事ができなくなった人たちはどうなったの?」
「…。奴隷になった…」
「奴隷ってなに?」
もう、「奴隷」という言葉さえなくなっていた。奴隷とは自由を失い、考えたり働いたりする自由、行動なども制限され、差別(区別)されて生き続けていた。彼らは何をして生きていたのかというと、すべての労働はロボットが行うが、ロボットにできないこと、する必要のないことをさせられた。効率第一主義、利益第一主義、経済最優先となり、人口はどんどんと減らされ、六〇歳を超えると、収容所に入れられ、死を待つのみの生活となる。
「人間にしかできない仕事ってなに?」
「…、それは実験材料になることさ」
「どうして実験材料になるの?」
今の世界は、圧倒的な格差社会となり、紙幣など消滅してしまったが、数字(印字)による資産計上の世の中となり、上級人間と中級、下級人間の三つの社会が形成された。
上級というのはお金持ち、中級というのは小金持ち、下級というのは資産を持てない貧乏な弱者たちのことをいう。
しかし、上級人間はほんの一握りの者たちでその者たちが世界をコントロールしている。中級人間はその上級人間から恩恵を受けている者たちで、下級人間は、わずかな生活保護を受けて従う奴隷なのだ。
「パパ、わたしたちはなに?上級なの?中級なの?それとも下級なの?」
「ふうん。難しい質問だね…」
「私たちはみな『パブロフの犬』かもしれない…」
一八四九年、ロシアのリャザンという古い町で生まれたイワン・パブロフは、この条件反射を発見した、ソ連の生理学者がいた。
神父を父にもったパブロフは、父のあとをつぐために、少年時代は神学校で学んだ。しかし、彼はしだいに生理学が好きになり、二〇歳のときにはペテルブルク大学へ進んで、消化器や神経の研究に取り組んだ。
そして、およそ三〇年もの長い年月と、気の遠くなるような数かずの実験から、条件反射は発見された。
さらに実験をつづけたパブロフは、ついに条件反射が大脳のはたらきでおこることを発見して、それまでわからなかった大脳のしくみを突き止めた。
彼は自分の飼っていた犬の実験で発見された条件反射が、そのまま人間にもあてはめた。パブロフが生涯をかけて、人間のからだと心の関係をみきわめようとした努力が、大きくみのった。
一九〇四年、パブロフはロシアの科学者としては初めて、ノーベル医学賞を受賞した。「わたしが発見したのは、ひとかたまりの土くれです」と語っていた。年をとってからも「観察、そして観察」という大好きな言葉を実行して、八六歳で亡くなるまで、研究を続けた。
その実験材料の犬の名前を「パブロフ」と名付けた・
そして、その実験場を「静寂の塔」と呼んだ。
本来、この実験は人類の平和的利用、消火器や神経、脳の研究として行われ、当時は動物実験が主だったが、彼は愛するパブロフを解剖などせずに、苦しませず、できるだけ自然の姿のままで研究をした。
マズローの法則は、ひとつは「人間の心理は機械のようなものである」と考える「行動主義心理学」。複雑に見える人間の心理も、突き詰めれば外界の刺激に対する反射の集まりにすぎないのだ、とする説です。
「パブロフは人間の為に協力をしたのね。でもどうして人間が人間をパブロフのように実験をしたの?」
「それは、経済優先主義、拝金主義、儲けという物質文化に人間が望んだために起きたのさ。人の命よりお金。もちろんお金が無ければ生きてはいけないけれど、人間は苦しくなるとお金に頼り、お金がすべてとなり、お金が万能の神さまとなって人類全体が『パブロフの犬』となってしまった。この世界はまさにパブロフが実験された「静寂の塔」と化してしまった…」
「わたしもその奴隷なの?」
「いや、きみたちは違うよ!それはね、世の中に対して何故なのだろう?どうしてなのだろう?この世界はおかしい、変だと思う、信じる人たちはパブロフの犬のようなよだれが出ないはず。君たちに残されているのは、想像する力、創造する力がある。それに人を思う気持ち、優しさ、思いやり、何よりも愛する心がある、それはAIにはない、できない。きみたちが、この世界を変えることができる。そして何よりも考える自由があるからさ」
人はパブロフの犬にはならないと信じている。
時代がどんなに進んでも、これから数百年が過ぎ、さらにAIが発達したとしても、父や母を思う気持ち、兄弟姉妹、愛する人たちを思う気持ち、人やすべてのものを愛する心は機械にはできないからだ。
そして忘れてはならないことがある。
それは人間だけにしか備わっていない「良心」という心が残されている。私はその人間に残された「良心」を信じている。
そして、潜在意識の中に残されている意識、身体の中に残されているDNA、そして魂は製造することができないものだからだ。
そう、パンドラの箱の中身がすべてなくなったとしても、人類には最後に「希望」が残されているはずである。
Ivan Pavlov イワン・パブロフ
※参考
条件反射(じょうけんはんしゃ)とは、動物において、訓練や経験によって後天的に獲得される反射行動のこと。これは、ソビエト連邦の生理学者イワン・パブロフによって発見され、パブロフの犬の実験で有名になった。 犬にエサを与えるときに必ずベルを鳴らすようにしたところ、エサが無くてもベルを鳴らすと犬がよだれをたらすようになる。
パブロフ博士は、犬にエサを与える実験を他にも行った。それは、犬にエサを与えるとき、丸い光を当ててから与え、楕円の光を当てたときにはエサを与えないという実験をした。すると、犬は丸い光を見るとよだれをたらすようになり、楕円の光を見るとよだれを出さないようになった。
だが、このあとの訓練が恐ろしいのだ。
パブロフ博士は、エサを与えるときの丸い光を少しずつ楕円の光に近づけていきました。丸い光を見てよだれを出していた犬は、光がだんだん楕円に近づいていくにしたがってわけがわからなくなり、約1ヵ月後に狂犬病になり、死んでしまったのだ。
「パブロフの犬」というのは簡単に言うと、パブロフが行った習慣を条件反射にする有名な実験だが、それを簡単にまとめてみた。
イヌにメトロノーム(ベルと言う説もある)を聞かせる。
イヌにえさを与える。イヌはえさを食べながら唾液を出す。
これを繰り返す。(上記の二つのプロセスを条件付けという)
④すると、イヌはメトロノームの音を聞いただけで、唾液を出すようになる。という『洗脳的なもの』だ。
パブロフの犬は、餌を与える際にベルを鳴らし続けると、ベルの音だけで犬は、よだれを流すようになる。これこそはある意味の洗脳による恐怖心ともいえる。(後にCIAでは人体実験などに使用した)