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【93】与えられた20ドルの奇跡

与えられた20ドルの奇跡

ある日突然、医師から食道ガンを宣告された。

治療をしなければ、私の生命はあと一か月あまり・・治療したとしても治る見込みはないらしい。限られた時間で、人々のために私は何をすべきだろう?

ふと、とても貧しかったあの頃の想い出がよみがえった。

それは、1971年11月のことだった。あの時、私はとても腹が減っていた。それに眠くて頭がボーっとしていた。

これからどうしたら良いのだろう?

どう生きていけば良いのだろう?

経営する会社が倒産し、路頭に迷っていた時の事である。

あまりの空腹に耐えきれず、レストランに入るとすぐさまメニューを手にして料理を注文した。私は何もかも忘れ、無我夢中で目の前の食べ物を口に運んでいた。食べ終わって

ボーイから請求書を渡されたとき、ふと我に返った。

そうだ、一銭もない。ポケットの中から財布を取り出してみたが、やはり金は入っていない。私は真っ青になり、慌てた。無銭飲食・・その言葉が脳裏をかすめる。このままでは警察を呼ばれるかもしれない。会社を倒産させ、一文無しの私を信用するものなど誰もいない。

私は覚悟した。席を立ち、レジに向かおうとしたら、男性店員から声をかけられた。店員は床下に手を伸ばして、私の足元に20ドル札が落ちていたといい、手渡してくれた。私は唖然としながらも、そのお金で会計を済ませた。

人生最大の苦難の時、偶然手に入れた20ドル札によって運命を変えてしまった男の名はラリー・スチアート(23歳)という。

1972年、運よく拾った20ドル札の残りを旅費にしてカンザスシティに移り住んだ。そこで一生懸命にアルバイトをしながら、やがて警備会社を設立。妻となる人と出会い、結婚し、子どもも生まれて幸せの絶頂を迎えていた。

しかし、1977年12月に再び会社が倒産してしまう。二度目の倒産である。23歳の時のように、その日の食事代にも困るほど追いつめられていった。

当時との違いは妻と子どもたち家族がいることだ。日々、お金の工面や借金取りに追われ、心はバランスを失っていた。銃を手に入れて銀行強盗を考えたその時、ポケットから20ドル札が出てきて、ラリーは我に返った。

1978年、彼は妻の兄に援助してもらい、セールスマンとして再起を図る決心をした。しかし、わずか一年足らずの1979年12月に、その会社の経営が思わしくなくなり、ラリーは解雇される。

さて、またふり出しだ。

どうしようか・・。

ラリーは考えながら傍にあった店に入り、ポップコーンを注文した。女性店員の表情はとても暗く、今にも泣きだしそうな顔で何かをラリーに語りかけているようだった。彼女は注文した商品ではない品物とお釣りをよこした。仕事どころではないのだろう。それほど悲しそうな顔をしていたのである。そこでラリーはお釣りの中から20ドル札を彼女にプレゼントした。彼女は受け取れないといったが、ラリーは「クリスマスプレゼントだ」といって渡した。

ラリーは20ドル札にある想いを持っていた。そう、この日もクリスマスだった。女性店員は笑顔でラリーに御礼をいい、その姿があまりにも嬉しそうだったので、ラリーはさらに次の行動を取った。そのまま銀行に出向き、なけなしの貯金を引き出すと、白いオーバーオールに赤い服とベレー帽をかぶって町に繰り出し、貧しい人たちや困っている人に20ドル札を手渡していった。

彼の人生はここで大きく変わっていく。

20ドル札は大金ではないが、困っている人たちには大きな助けとなり、思いもかけず喜んで受け取ってもらえた。その日、ラリーはクリスマスだというのに家族には何も買えず、お金がないと嘘をいってしまった。それを聞いた妻は怒るどころか、「仕方がないわね、でもあなたは幸せそうね・・」とほほ笑んだ。

翌年の1980年、働く場所が見つからないラリーは友人と電話会社を設立し、今まで以上に懸命に働き続けた。そして、働いたお金を貯めては毎年クリスマスに20ドル札を困っている人たちに手渡す活動を続けた。

不思議な事に、お金を施せば施すほど会社の業績は上がり、長年切り詰めた生活からも抜け出せるほどになった。また、家族のために新しい車や家を買えるようになったラリーは、さらに多くの人たちに施せるようになっていた。素性がわからないラリーのことを、人々は「シークレット・サンタ」と呼ぶようになった。

これは家族も知らない活動だったが、9年目の1987年12月、妻にシークレット・サンタのことがばれてしまう。ラリーは素直に妻に詫びたが、妻は「素敵なことじゃあない、これからもっと節約してたくさんの人を助けられるよう協力するわ」と答えた。シークレット・サンタに家族ができたのである。

1995年、地元で有名になったシークレット・サンタは、匿名を条件に新聞の取材に応じた。その新聞はカンザスシティ・スター紙である。しかし、正体を隠せば隠すほど、巷ではシークレット・サンタへの関心が高まっていった。

一方、ラリーは多くの人たちに感謝されるにつれて、どうしてもある人物に会いたいという思いが募っていた。そして、1999年12月、ミシシッピー州の小さな町に住む男性を探しあてた。その男性こそがシークレット・サンタの生みの親だった。

28年前、一文無しで希望を失い、絶望の淵に立たされていたラリーに20ドル札を渡してくれた男性店員との再会であった。あの時のラリーは、あとで落とし主が現れて返してくれといわれたら困るので、逃げるようにその場を立ち去ってしまったという思いが残っていた。後にその出来事を振り返えるにつれ、あの20ドル札は落ちていたお金ではなく、あの店員が自分にくれたものだと、ラリーは確信していたのだった。

その男性店員の名はテッド・ホーンという。

あの20ドル札がなかったら、間違いなく刑務所に入っていただろう。さらにその事を忘れていたら、銀行強盗もしていたかもしれない・・。

ラリーは涙した。

やっと会えた時、お礼としてラリーはテッドに1万ドル入った封筒を渡したが、テッドは受け取る気などなく、「警察に突き出すのではなく、自らの過ちに気づき、他人への優しさを知ってほしいと思って私はあなたに20ドル札を差し出した。それをずっと覚えていて、サンタ活動を続けたことに頭が下がる」と、テッドはあの時のようすを話したという。

テッドはラリーから渡された1万ドルを、近所で困っている人や生活に苦しんでいる人たちのために使ったという。テッドはあの時とまるで変わっていなかった。そして、ラリーのサンタ活動は全米に広がり、2001年には世界貿易センタービル爆破事件のあったニューヨークに出向き、ホームレスや職を失った人を中心に2万5千ドルを配った。2005年にはハリケーンで壊滅的な被害を被ったミシシッピー州を中心に7万5千ドルを配り、27年間で配った総額は150万ドルになったという。

20年以上も姿を現さなかったシークレット・サンタだったが、2006年にラリーはついにカメラの前に姿を現し正体を明かした。自分がこの世を去った後のことを真剣に考えたからだ。個人で動き続けることに限界を感じるほど、世界中には貧しい人々や困っている人が多い。ラリーはもっともっと働き続けたかったが、自分に残された時間は限られている。だから身近な人々に思いやりの輪を広げてほしいと切に願った。

その反響はすざましく、2日間で7000通もの手紙やメールが彼のもとに届いた。それは、シークレット・サンタになりたいという人々からの申し出だった。その年のクリスマス、ラリーは最後のシークレット・サンタの務めを果たし、翌年の2007年1月12日、58歳で静かにこの世を去った。

「ほかの誰かを助けることこそが、私たちの生きる目的なのだ」

彼の言葉は多くの人の胸に刻まれ、シークレット・サンタは世界中で生まれている。

※旧約聖書創世記の始まりの日「光あれ」3月28日キリスト生誕説に合わせた3月クリスマス用寄稿文より

©Social YES Research Institute / CouCou

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