【95】老年の心得
老年の心得
人生は不思議である。
それは誰もが必ず歳を取り、同じ立場となることだ。
いつのまにか、わたしの人生も最終にさしかかってきた。
今年も相変らず病院通いが続いている。
病院は、喜びと哀しみを背と腹にして生命の尊さが同居する場所でもある。
壮健な人と病弱な人を比べた場合、明らかに病弱な人の気持ちの方が温かい。
その温もりは、病気で苦しんだ者が会得した幸福感からくるものだろう。
そしてその幸福感の源泉は、辛い病をも感謝に変容させる精神性によるものだ。
以下は、ある病棟の壁に貼られてあった「老年の心得」という名もなき人の文である。
老年になると、人は途端に時間を失ったように感じる。
老年になると、人はみな残り時間が少ない、と焦り始める。
老年になると、人は急ぎ出し、慌てることが多くなる。
老年になると、慌てて眠ろうとする、すれば眠れなくなる。
老年になると、時間がもったいない、と早寝、早起きになる。
老年になると、自由に動ける若者が眩しく見える。しかし、あなたもその眩しかった時を充分に迎えて来たはずである。若者には老人の気持ちなどわかるはずはない。いつの日か、みな同じように老人になるということを。
老年は、老年らしく考え、老年らしく生きる。
それが本当の老年の生き方である。
すべての老人は、老人が素晴らしいということを知らない。
残されている人生の素晴らしさに気づく人が少ない。
ある100歳を超えた老人はこう語った。
100歳には100歳の人生がある。
100歳には100歳にしかわからない感じ方、見方、考え方がある。
それと同時に、70歳、80歳、90歳にしかわからない人生の受け取り方、生命の重みがあることをしっかりと感じる必要がある。
わしは若い頃、こんなに花が綺麗だ、と思ったことがなかった。
こんなに空気が新鮮で、こんなに水が美味しく飲めて、こんなに夜が楽しく、朝の待ちどうしさを感じたことがなかった。
わしは若い頃、こんなに甘い物が美味しい、と思ったことがなかった。
こんなにお米が美味しくて、こんなに野菜が瑞々しくて、こんなに食事が楽しい。何よりも新聞や本が読めて、テレビが見られて、人と話せて、こんなに楽しい毎日はなかった。
老人になると、若い時を思い出しては若い方がいい、と羨む。それは誰もがいう。それは確かに事実であろう。若い人には夢があり、何よりも元気で活力がある。しかし、その現実はどうだろう・・。昔を懐かしむ、昔を想い出す、昔の想い出を大切にする・・しかし、100歳になっても私たちは、たった今を愛し、たった今を愛おしみ、それを貴重に思って生きることだ。わしは、100歳になってそれをしみじみと感じた・・。
老人たちよ。
もう急ぐことはない。
もう急ぐ必要がない。
急いで生きるのは若者たちの大切な使命だか、年寄りの使命は急ぐことをやめることである。
これは諦めることではない。
ただ急ぎ足を止めることだ。
もし、夜眠れない時があれば、急いで眠る必要はない。
急いで眠ろうとして睡眠薬を飲べば、強制的に寝てしまうことになる。
その時は起きていればよい。後に眠くなったら、眠ればよい。
もし、夜トイレに何度も起きて困るからと薬で調節すれば、必ず何かしらの副作用が起こる。そんなことよりも、トイレに行くたびに尿のでることに感謝すればよい。便秘になっても慌てず、その便秘を我慢していれば、いずれ必ず自然に出るわけだから、出たことに感謝すればよい。
若い時は、何かを怠れば誰かに怒られる場合もあっただろう。
だが、年寄りの大切な仕事は、まず怠けることだ。
怠けることで、エネルギーを温存して、大切な何かにそのエネルギーを回すのだ。
もう、急いで生きる若者ではない。
ここまで来て何に慌て、何に急ぐ必要がある。
だから怠け続けなさい、それが老人の特権である。
若者は時間を守り、時間通りに急いで生きる必要があるだろう。
人生経験が少なく、未熟でもある。何よりも知恵が足りなく、思慮深くもない。
それに反して老人は、時間は大切にしなくてはならないが、時間に振り回されず、時間や約束が守れなくなったって、誰からも文句を言われる理由はない。
誰かが迎えに来たからといって慌てる必要はなく、相手に気を使う必要もない。ただ老人は焦らず、ゆっくりとマイペースで歩いて、その迎えに応えればよい。急げば転ぶかもしれないし、躓くかもしれないからだ。
老人には待つ楽しみが残されている。
病院の待合室などは、若者にとっては退屈でつまらない場所であろう。
しかし、老人にとってのそこは様々な人間模様が見える場所だ。
そこでは、若い人々を含めてあらゆるものが見える。
だから待つことは苦でなく、楽しみになる。
急ぐより、ゆっくり待つことがよい。
若い時は、急がねばならなかった。
若い時は、急がねば生きて行けなかった。
しかし、老年は違う。
老年の素晴らしさは、人生を味わうことだ。
老人は一歩、一歩、ゆっくりと歩き、すべてをゆっくりと味わうことのできる歳なのだ。素晴らしく、素敵な人生を生きているという、生かされているという実感を味わうことができるのだ。
老年になると、みな身体の不自由を嘆く。
老年になると、あちこちが痛み出してストレスを感じる。
老年になると、様々な病気になりがちで不安になる。
老年になると、全身が鈍くなり、気が重くなる。
老年になると、自分の思う通りのことが出来なくなり、嘆く。
老年になると、病院通いが多くなる。
しかし、落ち込む必要はない。
老年は、身体の不自由、痛みに感謝しなければならない。
老年は、様々な病気に、身体の鈍さに、病院通いに、自分の思う通りに出来ないことに、心から感謝しなければならない。これらはすべて神様から与えられた生命のある証拠であり、これほどの幸せなメッセージはない。
若かったとしても自分の思う通りになることなどない。
自分の思い通りになる、という考え方がおかしいことに気づかねばならない。
今を生きている、それだけでそれ以上のものの何が必要なのだろう。きっと何もないはずだ。
老人よ、恐れるな。
老人よ、心配するな。
老人よ、信じよ。
老人よ、何かを与えてみよう。
老人よ、何かを残してみよう。
老人よ、ないものを考えるよりも、あるものを考えよう。
老人よ、今を大切に生きよ。
老人よ、百二十歳を目指せ。
老人よ、最後の仕事をしよう。
老人よ、あなたの仕事は幸福な人生であったことを認めることだ。
老人よ、それが生きるという戦いだ・・。
©Social YES Research Institute / CouCou