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【94】多病息災自慢

多病息災自慢

病院の待合室や、お見舞いで病室に顔を出すたびに不思議な光景に出くわします。

ある待合室では、

「この間、救急車で運ばれましてね。不整脈だったんですよ…」

「最近、血圧が上がってしまって、上が150を超えてしまってね…」

「いやあ、わたしはもっと上がっちゃって大変だった…」

「足が痛くてねえ、どの病院に通ってもなかなか治らない…」

「あたしなんか、もう十年以上もこの病院に通っているけど、それでも治らない…」

ある病室では、

「先日、心臓の手術をしまして、なんとか一命を取り留めたんですよ…」

「わたしは糖尿病でね。もう治らないみたい…」

「わしゃあ、脳硬塞で倒れてからあまり記憶がないんじゃよ…」

「わしは高齢だから、もう手術ができんと言われちまった…」

「ところで、あんたは…?」

「わたしは癌なんですよ…」

このように、みんなが病気の話題で盛り上がるのが病院というところです。

普段はまったく会話のない人でも、病院に来ると饒舌になります。

「あの医師は診察が丁寧だよ」「○○先生は優しくて、とてもわかりやすく説明してくれる」「○○先生は心臓手術ではかなりの腕らしい」「あの女医は少し威張っている」

など、これらの情報を患者たちはどこで調べてくるのでしょう?

担当医師の能力分析や病気に関する情報など、医療関係者より詳しい人もいて、みな逞しい。同病相哀れむというのか、ある意味のご近所付き合いというのか、楽しそうでもある。この光景がとても不思議にみえてしまうのは私だけでしょうか。

「ここが痛い」「あそこが痛い」「もっと痛い」「あんたより痛い」「あなたより酷い」と、痛いところがない人はその仲間に入れず、痛いが当たり前で、痛くない人は蚊帳の外。

何れの人も逞しく、楽しそう。これが病人なのか?病院なのか?もしかして、ここは社交場なのか?

自分には病気がないと「無病息災自慢」をする人も多いが、病気知らずの人ほど健康に感謝する機会が少ないといえるでしょう。病気持ちの人は、自分の病気を知ろうとするし、治すための努力もし、何よりも健康に感謝しています。ここが「健康な人」と「病気のある人」との大きな違いといえます。

病気のある人の方が自分の身体と向き合う時間が多い分、長生きするようです。逆に病気のなかった人が病気になると、とたんに慌てふためき、落ち込み、元気を失って、立ち上がれなくなるといわれています。

病気と無縁だった人が、ある日、コロッと死んでしまうこともある世の中。

「あんなに若くて健康だった人が、なぜ突然に亡くなってしまったのだろう?」

こんな言葉をよく耳にしますが、若くて健康、が長生きを保障しているのではありません。大切なのは今の病気に感謝できるか、ということ。病気のおかげで自分の身体のことを知り、学び、研究し、他者の助言を真剣に受け止め、病気を通して友だちや信頼できる人と出会い、結果、互いに支え合い、助け合ったりします。だから病気がもたらす良い側面も多くあるのです。病気も入院も嫌だけど、それを素直に受け容れて学習することです。病気の一つや二つ、三つ、四つ、五つあったからといって落ち込むこともありません。その都度、新たな自分を発見し、改めて自分を勉強するチャンスだと捉えればいいのです。たとえ本人は気付いていなくても、病気自慢は幸せ自慢、幸せな人なのだから。

人は病気することで他者に優しくなれ、生きることの素晴しさを実感できるようになりますから、「神様から授かったこの病気が治りませんように…」と祈るのも感謝のひとつです。

一病息災、二病息災、三病息災、四病息災、無病不息災。

病のある者は幸いであり、病のない者は不幸である。

そう、「多病息災自慢」は幸せを運んでくれる。

©Social YES Research Institute / CouCou

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