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【55】「世界でいちばん悲しい女」

世界でいちばん悲しい女

久しぶりに素敵な詩に出合いました。

「世界でいちばん悲しい女」~「世界でいちばん幸せな女」のお話です。

世界で一番悲しい女とは、どんな女性のことをいうのでしょう。

20世紀初頭のフランス。その才能と美貌からピカソやブラックといった芸術家や多くの詩人たちのミューズとして愛され、画家でありながら詩や散文も書き残したマリー・ローランサン。

次の詩は、今なお世界に知られる本詩「鎮静剤」を「世界でいちばん悲しい女」として、菅原敏さんの手によって詠み直されたものです。

「詩人天気予報」などで話題の詩人・菅原敏さんが、古今東西の詩人の作品に新訳としてタイトルを直したものです。

世界でいちばん悲しい女

いったい誰か、お話ししましょう

憂鬱で退屈な女より悲しいのは

幸せをつかめない女

幸せをつかめない女より悲しいのは

病気に苦しむ女

病気に苦しむ女より悲しいのは

捨てられた女

世界でいちばん悲しい女

あなたもいつか 出会うでしょうか

捨てられた女より悲しいのは

生涯ひとりで過ごす女

生涯ひとりの女より悲しいのは

求められない女

求められない女より悲しいのは

死んだ女

そして死んだ女より悲しいのは

忘れられた女

「鎮静剤」マリー・ローランサン(堀口大学訳)

退屈な女よりもっと哀れなのは悲しい女です

悲しい女よりもっと哀れなのは不幸な女です

不幸な女よりもっと哀れなのは病気の女です

病気の女よりもっと哀れなのは捨てられた女です

捨てられた女よりもっと哀れなのはよるべない女です

よるべない女よりもっと哀れなのは追われた女です

追われた女よりもっと哀れなのは死んだ女です

死んだ女よりもっと哀れなのは忘れられた女です

「鎮静剤」マリー・ローランサン(大島辰夫訳)

もの憂いよりは悲しくて

悲しいよりは不仕合わせ

不仕合わせよりは苦しくて

苦しいよりは捨てられて

捨てられたよりは天涯孤独

孤独の身よりは流浪の身

流浪の身よりは死んだ者

死んでなお忘れられて

世界でいちばん悲しい女

あなたもいつか知るのでしょうか

マリー・ローランサン(1883年~1956年 満72歳没)

マリー・ローランサンは20世紀前半に活躍したフランスの女性画家です。

ローランサンの母・ポーリーヌは年上の妻子ある代議士と付き合い、未婚のままパリでマリーを生みました。私生児として育ったマリーは父親が誰かを長い間知りませんでした。

幼い彼女は私生児という意味を理解できなかったようですが、あまりにも哀しい母の人生と自分の人生を照らし合わせていたような気がします。

女は哀しい。女は苦しく辛い。女は生涯孤独に生きるもの。女は死んでいくだけ。女は不幸なもの…。

時代がそうさせたせいもあったでしようが、マリーはその不幸な女たちを描き続け、女性の美を作品から訴え続けたような気がします。(これは私だけの勝手な考えですが…)

彼女は幼いころから読書や絵を描くことが好きで、いつしか画家になることを夢見ていました。夢見がちな少女時代を経て高校を卒業すると、アカデミー・アンベールで絵を学び、ここでブラックと知り合いキュビズムの影響を受けました。

1907年にサロン・ド・アンデパンダンに初出展。

このころモンマルトルのアトリエ兼用の古いアパート、通称「洗濯船」には多くの芸術家たちが集まっていました。この「洗濯船」で、マリーはピカソや詩人アポリネールらと青春時代を送るのです。

パステルカラーで女性たちを描き出す夢のような彼女の世界は、多くの人々を魅了しました。私も一時期パステルカラーに夢中になった時代があり、懐かしさを覚えます。

パステルカラーとは「中間色」を意味し、 赤、緑、青などの原色や鮮やかな色ではなく、薄いピンクやブルーなど彩度は低いが淡い色調で明るい色のことをいいます。

ローランサンは22歳の時、詩人のアポリネールと恋に落ちます。

しかし、1911年にアポリネールがモナ・リザ盗難事件の容疑者として警察に拘留されると(無罪でした)、ローランサンのアポリネールへの恋愛感情も冷めていきました。

「鎮静剤」という詩には、彼女の深い悲しみが潜んでいて、母の不幸、自らの女としての人生に悲観的な言葉を吐き続けていますが、彼女の最期は「世界でいちばん幸せな女」だと感じます。

その後もアポリネールはローランサンを忘れられず、彼の代表作「ミラボー橋」という有名な詩にその想いが残されています。

1912年に開いた最初の個展は評判となり、その後、マリーは次第にキュビスムから脱します。彼女が30歳になる頃にはエコール・ド・パリの新進画家として知られるようになっていました。

1914年、31歳でドイツ人男爵と結婚。これによりドイツ国籍となりましたが、その直後に第一次世界大戦が始まり、マドリッド、バルセロナへの亡命生活を余儀なくされました。戦後、離婚して単身パリに戻ってからの彼女の画風は大きく変わり、それまでの作品にあった「憂い」は消え去り、繊細さと華やかさと官能性をあわせ持つ、夢の世界の幸せな女性像を生み出したのです。第二次世界大戦に向かう爛熟した平和のひとときを、フランス史上では狂乱の時代と称されましたが、その時代を体現した売れ子画家となりました。

パリの上流婦人の間では彼女に肖像画を注文することが流行となり、さらに舞台装置や舞台衣装のデザインでもマリーは成功を収めます。

第二次世界大戦の際には、フランスを占領したドイツ軍によって自宅を接収されて苦労しましたが創作活動を止めることなく、戦後の美術の動きがより急進的になっていくのを見守りつつ、静かな老いの中で自らが信じる美を描き続けました。

1954年、シュザンヌ・モローを養女として迎えますが、その2年後の1956年に心臓発作にてパリで死去。72歳でした。

「世界でいちばん悲しい女」という詩があるのですから、「世界でいちばん悲しい男」の詩もあるかと探してみましたが、残念ながらありませんでした。

そこで、次のような作品が生まれました。

世界でいちばん悲しい男

波瀾万丈に生きる男よりもっと哀れなのは

平凡な男

平凡な男よりもっと哀れなのは

恋をしない男

恋をしない男よりもっと哀れなのは

人を信じない男

人を信じない男よりもっと哀れなのは

金のある男

金のある男よりもっと哀れなものは

しあわせを与えられない男

しあわせを与えられない男よりもっと哀れなのは

働くことのできない男

働くことのできない男よりもっと哀れなのは

すべてを見届けることのできない男

すべてを見届けることのできない男よりもっと哀れなのは

愛することを忘れてしまった男

創訳「世界でいちばんか悲しい男の鎮痛剤」

©Social YES Research Institute / CouCou

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