【49】原爆ばあちゃん

September 13, 2018

そのおばあちゃんは、私の顧問先の喫茶店で毎日コーヒーを飲むのが日課でした。

知り合ってから、もう10年をすぎようとしています。

顔を合わせれば、おばあちゃんは笑顔でいつも同じ話をします。

「私は被爆者なの、広島で生まれて、広島で育ったの。父も母もみな原爆で死んでしまった・・。私が10代の頃の出来事なの。戦後70年を過ぎた今でも、私はどうしても忘れられないの。決して、こんなことがあってはならない。あと何年生きられるのかわからないけど、一人でも多くの人に原爆の怖さと悲惨さを伝えていきたいの、知ってほしいの、覚えていてほしいのよ・・」

 

彼女は「原爆ばあちゃん」と呼ばれています。

 

ある時、私は原爆ばあちゃんにこんな話をしてみました。

「もっと多くの人たちの前でお話をしたり、何か記録を残したりすることが必要だと思うよ・・ここの喫茶店で話していてもなかなか伝わるものじゃない気がするしね・・」

 

しかし、このおばあちゃんは私の言葉に耳も貸さずに、永遠と話し続けます(いったん話し出すと、何時間でも話がとまりません)。

私は、その真剣さに胸を打たれて、なるべく聞くようにしていましたが、お店のマスターが困っているのがよくわかります。隣の席に座っている見知らぬお客さんにも一方的に話し続けるので、おばあちゃんの周りには誰も座らなくなってしまいました(当然ですが、みな嫌な顔をしていました)。

 

それでもおばあちゃんは、離れた席に座っているお客さんの所へ行き、原爆の話をします。お客さん同士が話し合っている最中でも割り込んで、話し始めてしまいます。

店内におばあちゃんの姿があるのを知ると、去っていくお客さんも出てくるようになり、あえて、私が同じお客の立場で話すことにしたのです。

「おばあちゃん、相手にも都合があるんだよ・・。ゆっくりと休憩している人や、本を読んでいる人や大切なお話をしている人もいるよ・・」

「ああ、そう。そうね、でもね、私はこのことを伝えたいのよ・・」

と、おばあちゃんにはなかなか理解してもらえませんでした。

 

その後の数日だけはお店に来なかったのですが、またやってきて話を繰り返し始めました。マスターは相変わらず、困った顔をしています。

私は少し、彼女を観察するようにしてみました。

おばあちゃんがお店にいる時間は4時間~5時間と長い。

夕飯などの買い物なども付き合ってみました。

すると、近所の人、見知らぬ人、スーパーのレジ、販売員など、目につくすべての人に話しかけます。スーパーでも有名人ですから無視する人もいます。

中には怒る人もいます。当然です。

しかし、おばあちゃんは決してへこたれません。

ある時、店員が怒りだしました。

「申し訳ありませんが、出て行ってください。他のお客様に迷惑がかかりますから・・」

「ごめんなさいね。本当にごめんなさいね・・。でもね、戦争をやめてもらいたいの。もう、広島のように原爆が落ちない世の中になってほしいの・・。子どもたちも安心して生きられる時代になってほしいの・・。ごめんね、ごめんなさいね」

おばあちゃんは泣き出しました。

そばにいた私も涙が止まらなくなりました。

 

「おばあちゃん・・もう帰ろう、家に・・」

「・・・・」

「おばあちゃん、もう少しやり方を変えてみようよ!」

「どういうふうに・・?私はね、頭が悪いの。文章も書けないし、話しも下手。何もできないの。でもね、生きている限り、私は〈語り部〉として伝えていく責任があると思うの。最近は幼稚園や小学校に行ってね。校庭で遊んでいる子供達にもお話しているの。もう、戦争は絶対に駄目なの。私は・・、私だけ生き残ってしまったのよ・・。だから私のできることをやり続けているのよ・・」

 

どうしたらいいのでしょう・・。

私はさらに涙がとまりませんでした。

 

「昭和20年(1945年)8月6日月曜日の朝は、とても美しい青空でした。真夏の太陽は眩しく、とても静かな時間が流れていました。午前8時15分。私は父や母と食事をしていました。私は食べるのが遅く、母に怒られていたところです。そのとき突然、空が閃光を放ち、小さな太陽のような球体が落ちてきました。それはまるでスローモーションのようで、神様の光のように感じていました・・。その火の玉は、数秒後にはものすごい大きさとなり、落ちてきました・・それ以外は何も覚えていません。どちらにしても真っ黒な煙の暗闇の中にいたようです。私を助けてくれた近所のおじさんの話だと、父と母は私を抱きかかえたまま死んでしまったそうです。兄弟や友達もこの世から消えていました・・。14万人もの人々が、その一瞬で死んでしまいました・・。私は、私の頭は、それから少しおかしいようです。それにみんなに嫌われているようです・・」

 

2016年5月27日にオバマ大統領が広島を訪問しました。謝罪こそありませんでしたが、人類史上最大で最悪な虐殺が行われた広島訪問は、それなりに意味があったのかもしれません。

私は無性におばあちゃんの事が気になり、オバマ大統領の演説全文の入った新聞を渡そうと、いつもの喫茶店に出向きました。

「原爆ばあちゃんは、広島に来たオバマさんを見たかなあ・・」

「亡くなったみたい・・・葬儀も行わず、近所の人も知らなかったみたい・・」

「確か、娘さんが二人いたはずだけど・・」

「娘さんが単独で葬儀をして、そのままどこかのお墓に入れたみたい。それ以外はまるで情報がないのよ・・」

マスターの奥さんは呆れた顔をして説明してくれました。

「近所の人たちも、子供たちもおばあちゃんのことを嫌っていたみたいでね、孤独死だったようよ・・寂しいね・・」

「そうだね・・寂しいね・・」

「オバマさんが広島に来たことを知ったらおばあちゃんはどう思ったでしょうね・・」

「おばあちゃんは、誰のせいにもしなかったね。アメリカ人が悪いのではない、日本人だって悪くない、そういつも言っていた。最初から最後までひとりぼっちだったね、おばあちゃんは・・」

 

一体、おばあちゃんの人生は何だったのでしょう?

原爆の語り部としての一生だったのでしょうか?

人に嫌われ、実の子供たちにも嫌われていた原爆ばあちゃん。

人から煩がられても話し続けた、無名の原爆語り部ばあちゃん。

 

喫茶店も、この地域も、何かしらを失ってしまったかのように、異常な静けさが訪れています。たった一人、煩がられていたおばあちゃんの存在がなくなるだけで、これほど寂しく、静かにさせてしまうのでしょうか?

名物ばあちゃんは、私だけでなく、多くの人にその存在で何かを与えてきたような気がします。

 

彼女のいつもの口癖は、

「私って幸せよ!こんなに幸せな人生はないわ!生きていることはとても素晴らしいこと。私のようなクズな年寄りでも、きっと人様に役に立つと信じているわ。私がこの世からいなくなっても、私が伝えた言葉はきっと多くの人の心に残っていると信じているのよ。たとえ、嫌われてもね・・」

 

私も広島のことは忘れない、忘れませんよ・・。

あなたから頂いた言葉もね・・・。

─合掌。

 

 

今年もまた8月15日が訪れます。

2015年は戦後70周年ということで、我が国の総理大臣も「終戦の日」を強調していました。

しかし、ロシア(旧ソ連)の対日戦勝利は9月、アメリカも9月となっており、中国では、この日を「日本の侵略に対する中国人民の抗戦勝利日」と位置付け、9月3日に軍事パレードを行っています。

 

どうして日本と他国の終戦日が違うのでしょう。

そもそも、日本人の8月15日は「終戦の日」なのか、「敗戦の日」なのでしょうか。

1945年の8月15日は、天皇が戦争後の日本の在り方を定めたポツダム宣言を受諾後、「玉音放送」で日本帝国軍に直接語りかけた日であり、「休戦宣言」を出した日だといえます。また、実際のポツダム宣言は8月14日に受諾されたものです。

アメリカでは8月14日に、日本が降伏したことを報道しています。

それを受け入れ、日本は9月2日の降伏文書調印を見届けたうえで全世界に布告したのです。したがって、1945年9月2日が第二次世界大戦の終了日だったことがわかります。

(1952年9月2日、日本は正式に独立国家となった)。

 

中国とロシアは、サンフランシスコ講和条約に参加していなかったため、それぞれの終結日が異なり、中国(中華人民共和国)とは1972年に国交を回復し、日中共同宣言を通して、正式に戦争状態が終わりました。

ソ連とは1956年に日ソ共同宣言を交わしましたが、実際はいまだに平和条約が結ばれていません。特にソ連は、1945年8月9日に対日戦を開始し、降伏調印式の9月2日に北方領土の歯舞島攻略作戦を開始し、5日に千島全島を占領しました。

そのため、9月2日が戦勝記念日にならなかったわけです。

さらに北方領土等の不法侵入、条約違反を政治的に帳消しにするために9月2日としたのです。当然、日本の降伏宣言、調印式を知った上での侵略行為でした。

また驚いたことに、中国に関しては2014年8月15日まで、正式な終戦記念日が存在していませんでした。その理由としては、日本軍は中国大陸で誰と戦っていたのか、という問題が関係しているのです。

戦時下の中国大陸は戦線が複雑化していました。当時の中国大陸では「国民党軍」と「共産党軍」が互いに中国を 制覇するために戦い、内戦中だったからです。つまり、現在の中国という国を体してなく、(二つの中国とそれ以外の民族がいた)日本の戦後を過ぎても中国の内戦は続いていたのでした。

 

 

8月の青い空と白い雲、暑い風、騒がしい蝉の声。

わずかに人の心を和ませる夕凪のなかで、別れた人と再び出逢う。

 

人それぞれの戦後があり、

人それぞれに人生があり、

事それぞれへの想いがある、8月。

「いのち」あることを、真剣に考えるときかもしれませんね。

 

 

©Social YES Research Institute / CouCou

Please reload

Recent Posts

December 16, 2019

Please reload

Archive
Please reload

© 2023 by Hunter & Thompson.(著作権表示の例)Wix.comで作成したホームページです。

This site was designed with the
.com
website builder. Create your website today.
Start Now