【07】梅の花の下で
私は、ある葬儀に出向きました。
とても静かな葬儀が終わり、お墓の納骨までお付き合いすることになりました。あたりは梅の花と梅の香りでいっぱいの山の中にある墓地です。
納骨には、亡くなった夫の妻と一人息子、私の親友とその妻のわずか五人でした。
不思議なことは天候のせいもあるのでしょうか?
とても暖かく、穏やかでまるでピクニックに来たかのようです。
お墓近くの梅の花の下にシートを敷いてそこでお弁当となりました。おにぎり、御新香、から揚げ、卵焼きといったまるで花見のようです。
納骨は私の先輩であり、親友の姉の御主人です。
死因は七三歳という若さでしたが肺癌を併発して手術に失敗してしまいました。肺癌自体は手術で簡単に済む時代なのですが、胸をあけた時点で肺結核がわかり、驚いた医師はその場で手術を中止したそうですがそのまま急逝してしまいました。
医師は家族に深い謝罪をしたそうですが、家族は何も言わず、丁重に頭を下げて御礼を言いました。
人生は不思議なもので死というものは予期しなくとも自然に襲って来るものです。
しかし、御主人を失った奥さんと一人息子は笑顔でいっぱいでした…。
親友も何かから解き放れたかのような笑顔でいっぱいです…。
この明るさは一体どこから来るのでしょう…。
この世を去った人の悪口などは言いたくないのですが、彼は祖父母を九州に持ち、満州で生まれ育ち、敗戦とともに兄弟二人で日本に引き揚げて来ました。
仕事は税理士だといっていましたが、本当は資格などありません(後で知りました)
この日、たった一人の実の兄は来ませんでした。
彼は、お金には煩く、戦後から貧乏生活を味わってきたためかお金の亡者のような人でした。
ある時は裏で金貸しなどをして厳しい取り立てなどの仕事をしながら、財を成し遂げてきました。また、腕っぷしも強く親友と私などの若い頃は争っても勝てないくらいの強さがありました。
当然、周りにはヤクザまがいのような者たちが出入りをしていて、昼間の顔と夜の裏の顔もありました。
親友にとっては姉の御主人なので一目を置いていた時期もありましたが、あまりの傍若無人振りには耐えかねていました。
姉は今でいうパワーハラスメントというように言葉と力の暴力の生活の中で子どもの為に耐え続けた約四〇年間の結婚生活でした…。
一人息子は勉強のできる才能のある子でしたが、鬱病となり一〇数年間家から出ていません。親友は何度も二人を引き取ろうと頑張っていましたが、現実は、うまくいきません。
まだ、二月なのですが、今日はあたたかな春日和です。
私たち五人は六〇歳代となりましたが、高校生の頃からの付き合いで何かあの頃に戻ったかのような気分になりました…。
まるで時間が逆戻りしたかのように、しばらくの間、時が止まってしまいました。私以外の五人は自然な心からの笑顔です。
何よりもすがすがしく晴々とした表情でした。
私は、ここで不謹慎かもしれませんが、
「良かったね…」といいました。
すると、四人とも、
「うん…。良かった…」と答えます。
納骨の日なのですが、言い知れぬ不思議な感覚でした。
このような感覚は生まれて初めてのような気がします。
「よく、頑張ってきたね…」
「うん…。頑張ったわ…」と答えます。
まるで悲しみや涙などありません…。
そこにあるのはあたたかな笑顔だけです。
一人息子も外出は何年ぶりなのでしょうか?
色白の日陰のモヤシのような青白い顔に赤みが射しています。
まるで梅の花みたいです。
「わたし、今年で六六歳になりました。二〇歳で結婚したので四六年間近くアウシュビッツ(強制収容所)にいたみたい…。犯罪者が刑務所から四六年ぶり出所してシャバに出た感じ。世の中のことはあまりわからないけど、これから好きな事をしたい…。四六年間を取り戻すのよ…」
親友は笑いながらいいました。
「もう姉さんはババアだよ…誰も相手にしてくれないよ…」
「ぇへ、そんなことないよ。こんな私でも愛してくれる人いるかもよ…」
一人息子も母を気遣うかのように、微笑みながらいいました。
「僕が母さんの面倒を見るから心配ないよ…」と。
親友がいいました。
「お前、もう三五歳だぞ…。どこも雇ってはくれないよ…」
「そんなことはない、叔父さんの所で働くよ。叔父さんはもう年だから…」
皆で大笑いでした。
(現在この一人息子は親友の会社の代表取締役として迎える準備しています)
「ねえ、私まだ六六歳よ…。あなたたちと比べたら見た目は六〇歳以下だよ…」
そういわれると親友も私も二人の方が年寄りに見えます。
そこで、また私は不謹慎な質問をしました…。
「ねえ、長い間よく我慢してきたと思うけど、今はどう思っているの…」
「…、何もないわ、何も無いのよ…。恨みも憎しみも何もない、苦しい思い出もない。だって私は望んでここまで生きて来たのだから…」
「何を望んだの…」
「逃げずに、あの人を見続けようって…」
「好きだった、ということ…」
「違うわ。怪我をすることも、殺されたとしても、このまま息子を守り続けようと誓ったの…。だから離婚しょうなどと考えなかった…」
「それは、復讐…」
「それも違うわ…、それ以外に生きる方法がなかったのよ…。弟もいるし…」
「それは、犠牲なの…」
「…いつか来るこの日を待ったの…」(今日という日を)
「……」
一瞬暗い表情を浮かべましたが、すぐさま笑顔に戻り目の前のおにぎりを食べ始めました。
私には、痛いほどわかっていましたがあえて四人の前で話しました。
私の親友は、会社が倒産し、取立人に追い込まれ逃亡生活を強いられ、この姉の主人の会社に引き取られ奴隷のように働いて来ていたからです。
彼は、肉体労働を強いられる仕事で、安い賃金で匿わられていました。
彼も長い間アウシュビッツ収容所にいたのです。
当時、私の会社がつぶれる前日に「生きろ!」「死ぬな!」「逃げるな!闘え!」とエールを送り続けた親友です。(「それでも人生にYESを」)
そして、いつの日か姉と息子を引き取るために新たに会社を興し、迎えに行く準備をしていた日が、この納骨の日となったのです。
そして、姉はその弟を信じ、ただ、この日まで待ち続けて来たのです…。
そう、今日はお別れの納骨日ではなく、数十年経って弟が、ようやくお迎えに来てくれた日だったからです。
どうやら、泣いているのは私だけのようです…。
あまりにも、明るく、笑顔のお迎えの日でした。
私はまた不謹慎な質問をしました…。
「…それでもどうして我慢できたの…」
四人とも静かになりました…。
「いままでも許し続けて来たわ。そして、今日で、何もかも、すべてを許すことにしたの…。自分のことも許すことにしたの…。今日は、私の卒業式(出所日)なのですもの。こんなにめでたい日はないわ。本当は桜の季節なら雰囲気が出ると思うけど、梅の花でいいや…」
そう、卒業式。そして進級、入学式なのですね。
これから新しい生活が始まるんだね。
良かったね…。
おめでとう…。
ありがとう…。
今日は素晴らしい、おめでたい日なのですね。
私たち五人は、最後にお線香を上げて、あたたかなすがすがしい空気を吸い込み、青い空を見上げて、次にまた逢える日まで笑顔で手を振り合いました。
ありがとう。
平成二九年二月二八日記 文責 CОU CОU