【17】鶴の願いごと
最後にできること
最後にしたいこと
最後だからできること
あなたは人生の最後に何をしたいでしょう?
わたしは今、とても悲しい。
八月の暑さと、啼きやまない蝉の声を聞くと思い出します。
わたしの名前は禎子。十二歳と少しの女の子で小学六年生になったばかりです。
わたしの生活は病院で痛み止めの薬を飲み続けること、それが唯一の仕事。いえ、まだまだ仕事はたくさんあります。だからとても忙しい日々を送っています。何よりも、わたしには大きな願いがあります。
世界が平和で家族が悲しむことなく、いつまでも、いつまでも、幸せでいてほしいということです。
うちの家族は優しいお父ちゃんに、お母ちゃん。お兄ちゃん、妹の美津江、弟の英二がいます。とても明るい家庭で毎日がとても楽しいです。小学校に入ってからはたくさんの友だちに囲まれて、とても幸せでした。でも、病院に入院してからは毎日が苦しくて、痛くて、寂しくて、一人ぼっちで悲しい生活。わがままばかり言って、お父ちゃん、お母ちゃんをずいぶんと困らせてしまいました。
お父ちゃん、お母ちゃん、兄弟に心配を
かけ続けていることが一番辛いことです。
そのためには、早く病気が良くなって、元気なわたしをみんなに見せたいと思います。
それが私の一番目の希望です。
昭和三十年二月二十一日、わたしは日本赤十字病院に入院しました。
ある時、病院にお見舞いに来てくれた友だちが「千羽鶴」を折ると願いが叶うと教えてくれました。その言葉を信じてみよう、そう思いました。それまでは、毎日が怖くて、辛くて、寂しくて・・。 だから、「千羽鶴」を折ってみようと思ったのです。 そして、もう少しだけ生きてみようと、希望を持ちました。
でも、折り紙はありません。折り紙はとても高価なものです。仕方がないので、お薬を包んであった紙や包装紙を小さく切って折ることにしました。
ある日、「千羽鶴」を折りながら、こんな願い事をしてみました。
「お父ちゃん、お母ちゃん、心配や苦労ばかりかけてごめんなさい。お金もずいぶん使わせてしもうた。お兄ちゃん、美津江、英二、ごめんね・・だから、きっと良くなるけんね」
わたしは、先生や友だちや家族のこと、世界中の子どもたちのことを祈りながら、願いながら千羽折り続けました。
禎子さんは昭和十八年一月七日に生まれました。二歳の時、広島に原爆が落ちて被爆しました。爆心地からわずか一・六キロの場所で。この時、禎子さんは放射能を浴びてしまいました。被爆から十年が経ち、白血病で倒れました。
禎子さんは毎日、毎日、何かに取りつかれたかのように千羽鶴を折り続けました。
折り鶴が千羽超えても無心に折り続けました。
「千羽鶴」は、日本で最も有名な折り紙である折り鶴を千羽折って、その一羽一羽を糸で綴じて束ねたものです。折り紙を千羽折ることで、病気快癒・長寿が叶うと信じられ、お守りとして贈られているものです。
広島市への原子爆弾投下で被爆した貞子さんが千羽鶴を折ったことにより、世界中に広がり、「千羽鶴」は平和のシンボルとなりました。
最近では、引退したプロレスラーの故橋本真也さんが、多くの子どもたちのファンから十万羽以上もの千羽鶴を贈られ、心を動かし復帰を決意したのも有名な話です。橋本真也さんは、目の前に山積みとなった復帰を願うファンからのメッセージと、千羽鶴を抱いて涙したといいます。
千羽鶴を折り終わった後も、禎子さんはまだ折り続けていました。なぜでしょう?
自らが最後にできること、最後だからできること、最後だからしたかったこと、だからなのでしょうか?最後の最後まで、生きる希望を失わないための祈りを、一羽一羽の折り鶴に込めていたのかもしれません。
わずか十二歳の生涯を閉じた禎子さんは、こんな詩を残しています。
風が気持ちいいって知っていますか
空気がおいしいって知っていますか
何の心配もなく歩けること
何の心配もなく眠れること
何の心配もなく食べられること
いつもは当たり前のように
時が過ぎていくことを見逃してはいませんか
自分の命がなくなると知ったとき
全てのものがもったいなくて いとおしくて こうごうしくて
何でもないことがどれだけありがたいことか
これで命を戻してもらえるなら
当たり前のことや周りの人たちに
たくさん たくさん感謝し
思いやりの心をたくさんの人にめぐらしながら
みんなと楽しい毎日にしたいと思います
禎子より
一九四五年(昭和二十年)八月六日。禎子さん二歳、運命が動き出しました。原爆投下は人類史上最大の殺戮といえるかもしれません。
地上五十八mで炸裂した悪魔の火の玉は、中心温度百万度を超え、爆心地周辺は三千から四千度。当時の広島市の人口は約三十五万人、十四万人以上の人命が奪われました。
被爆時、禎子さんはかすり傷ひとつ負わなかったといいます。
しかし、それから十年後、幸せな日々は無残にも崩れ落ちます。
体の痛みと高熱のため病院に入院しました。
両親は「早くて三カ月、長くて一年の命でしょう」と、担当医師から告げられました。
明るく、健やかだった禎子、素直で可愛らしい禎子が・・なぜ。
両親にとって医師の告知は測り知れないほどの驚愕でした。
小学校の卒業式に出られない娘に代わって、父親が卒業証書を受け取りました。
それを貞子さんに渡すと、
「お父ちゃん、ごめんね。自分でもらえに行けなくて、ごめんね。」
この時の父は悲しみを超えていたかもしれません。
病院の治療費の負担が続きます。
禎子さんのお父さんの仕事は床屋さんでした。
お客一人の散髪代が百四十円。週二回の輸血代が八百円。痛み止めの薬 (コーチゾン)が一回二千二百円。それに家族四人の生活費がかかります。
たとえ治らない病気でも、苦しむ娘の痛みだけでも和らげてあげたい。
父親は大切な腕時計を売り、自宅も売却しました。
大切にしていた時計をしなくなった父を見て、禎子さんは泣きました。
引っ越す話を聞けば、また涙します。
「ごめんね。ごめんね。お父ちゃん、お母ちゃん、兄ちゃん。みんな・・」
禎子さんは、自分がこの世に存在している辛さを感じていたのかもしれません。
そんな時、千羽鶴の話を聞いたのです。禎子さんは一羽、一羽をいとおしみながら折り続けましたが、千羽折っても病気は治りません。でも貞子さんは折ることをやめませんでした。
禎子さんはある決心をします。
それは、どんなに体が痛くても、痛いと言わないことでした。
もうこれ以上、お父ちゃん、お母ちゃんに心配かけないことでした。
「鶴をあと千羽折ったら、今度は絶対良くなるから」
「せっかく折った鶴が悲しむから」
「あと千羽、鶴を折ったら家に帰れるのだもの」
「私はあきらめない」
禎子さんは折り続けることで両親を安心させたかったのかもしれません。
そして、折り続けることが唯一の生きる希望だったのでした。
全身の痛み、熱とともに千羽鶴を折り続けます。
両親の前では笑顔を忘れません。
病気と闘い続ける貞子さん。
後に、このことが世界中に伝わるとは誰も思っていなかったでしょう。
ある日、お母さんは禎子さんの病室で寝ることになりました。
次の日、家に帰る母を見送る禎子さんは「待っているからね・・」と、初めて涙を見せました。
お母さんは「禎子が泣いたら帰れないじゃあないの」といいながら抱きしめました。
禎子さんの涙はそれが最初で最後でした。
最期の時、禎子さんは「お母さん泣かないで」「お父ちゃん、お母ちゃん、ありがとう」とつぶやきながらゆっくりと目を閉じました。
「もう楽になっていいんだよ、たくさん痛い思いをさせてごめんね。もう帰ろう、わたしたちの家に・・」
病院での約八カ月間の闘病。優しい家族が見守る中のお別れでした。
最後にできること
最後にしたいこと
最後だからできること
禎子さんのそれは、祈り感謝することでした。
禎子さんが生前に折った鶴の数は千五百羽以上といわれています。
禎子さんの同級生たちが「原爆で亡くなった人たちのために像を作ろう」という運動を始め、一九六八年五月五日に禎子さんをモデルにした「原爆の子の像」が完成します。
この像は日本だけでなく様々な国に知られていきました。
子どもたちの手でアメリカにも平和の像ができ、シアトル、サンタバーバラ、サンタフェ市にそれぞれ像が建つようになります。
後に、禎子さんの生涯は本や映画になり、世界中の人々に深い感動を与えました。
「禎子の折り鶴」は、二00一年(平成十三年)五月末現在で世界五十二カ国の地域に広まっています。
©Social YES Research Institute / CouCou